Header image

「接続詞を削れ」という指導がはらむ問題点

ダラダラとせず引き締まった文章に仕上げたいときには「形容詞を削れ」とよく指導されますが、それと同じくらい、「接続詞を削れ」という教えも目にします。本書でも「接続詞も削れ?」(pp. 87-88) というコラムでこれを取り上げています。そこでも紹介したように様々な文章読本でこれが説かれていますし、ネットで「接続詞」というキーワードで検索してみても、接続詞の濫用を咎めた記事を数多く見かけます。

先日もとある教授と接続詞を削る削らないで議論になりました。その先生は講義で学生に、接続詞を積極的に削るように、いやむしろ最初から書くな、と指導されているとのことでした。そう指導しないと学生は、下手をするとすべての文が接続詞で始まるような文章を書いてしまったりするし、論理展開もすっきりしないものが多くなる、というのです。

たしかに、学生レポートでよく見かける接続詞の多い文章はたいてい内容もグダグダなものです。例えば次の文を見てください。

旅行の楽しみの一つは観光名所を巡ることである。ところが個人旅行だと下調べが足りなかったりして、名所を見落すことが多い。しかしパック旅行であれば黙ってバスに乗っていれば確実に名所に連れていってもらえる。でも、旅行の醍醐味は迷ったり悔やしがったりという日常では味わえない体験にあるのではないか。(著者が実際に受け取った学生レポートを改変)

断片的な情報が次から次へと逆接の接続詞でつながって続いており、文章の主題がどこへ向かっているのかがいつまでもはっきりせず、論理の筋道がヨレヨレです。

接続詞の多い文章はたいていこうしたヨレヨレ文で、筋道を追うだけで苦労します。こんな文が延々と続くレポートを山ほど受け取っていると、「接続詞は少なくしろ」と指導したくなる気持ちはわかります。

しかし、だからといって「接続詞を削れ」と指導するのは、かえって多くの問題を生みかねないのです。

試しに先程の例文から接続詞を削ってみましょう。

旅行の楽しみの一つは観光名所を巡ることである。個人旅行だと下調べが足りなかったりして、名所を見落すことが多い。パック旅行であれば黙ってバスに乗っていれば確実に名所に連れていってもらえる。旅行の醍醐味は迷ったり悔やしがったりという日常では味わえない体験にあるのではないか。

どうでしょう。接続詞だらけだった文章に比べると、少し読みやすくなってしまってはいないでしょうか。読みやすいとは言わないまでも、文章が締まり重厚感が出て、なにかいい事を言ってるような気すらしてきます。

注意しないといけないのは、この文は接続詞を削っただけで、あいかわらず筋道はヨレヨレのまま。それなのに接続詞を削るという小手先の技巧だけで、文章の拙さが見えにくくなってしまうのです。おそらくは、文と文との論理的なつながりを、接続詞が省かれているが故に読み手が好意的に補いながら読んでいるからでしょう。好意でやっているものだから、その論理的なおかしさにはどうしても気付きにくくなってしまいます。

書き手が本当に検討しなければならないのは、自分が漠然と書き散らした文章の筋道を再検討し、そこに論理的破綻や飛躍がないかをあらためて確認し、また不足している情報を補うことで説得力を増すことであるべきです。機械的に接続詞をとっぱらって上っ面の読みやすさを改善するのは、かえってそこから書き手を遠ざけることにつながります。

これが、「接続詞を削れ」という教えがはらむ問題点なのです。

本書コラム「接続詞を削れ?」でも紹介した、野矢茂樹『哲学な日々〜考えさせない時代に抗して』(講談社, 2015)の文章をあらためて引用します。

(接続詞を嫌うのは)日本の言語文化の特徴と言ってよいように思われる。相手の知識や自分との関係を見切って、相手がつなげられるぎりぎりのところまで言葉を切りつめて手渡す。そして聞き手がそれをみごとにつなげて理解できると、そのときたんなる情報伝達ではない「絆」感が生まれる。閉鎖的な業界が自分たちにだけ分かる隠語を使うような感じと言ってもよいだろう。

論文やレポートの文章では、そんな「絆」は不要であることは言うまでもありません。

筋道を確かなものにしつつ効果的に接続詞をどのように使えばよいかについては、本書の以下のトピックで説明していますので、参考にしてください。