はじめに
本書 p.127 のコラム「感想文から卒業しよう」では、レポート末尾にとってつけたような感想文をつけるのをやめよう、ということを呼び掛けています。
本ブログでは他にも「レポートに書かれても困ること」という記事でこの問題を取り上げています。
この記事はツイッターで 1000RT ほどされていて、目にした人も少なくないとは思うのですが、残念ながら今期のレポートでも感想文めいたレポートが沢山見受けられました。
コラムにも書きましたが、求められてもいない感想文をつけてしまう背景には、おそらくは小学生の頃に課されていた作文の癖が抜けていない、ということがあるでしょう。
加えて、このような感想文がなぜ必要ないのか、レポートではなにを書くことが求められているのかを、高等教育で伝えきれていないという、教育機関側の課題が大きいように思います。
ここではこの問題を少し掘り下げて考えてみようと思います。
作文を感想で終わらせる習慣はいつから根付くのか
これを検討するためにまず、小学校一年生が書いた文を引き合いに出して考えてみようと思います。鹿島和夫編『一年一組せんせいあのね』(理論社, 1981)という、一年生の書いた詩を収めた本から、いくつか引用しましょう。
おにぎり / まえだ とおる
おかあさんのてが
やけどするぐらいあついごはんで
おにぎりつくったら
いちばんおいしいおにぎりになるねんで
たべるとき おにぎりが
やさしくたべれる
さんかんび / ふくい まなび
さんかんびでした
おとうさんはおしごとでこられません
おかあさんだけきてくれました
おともだちのおとうさんは
たくさんきていました
わたしはいっかいも
うしろをみませんでした
あたまのうしろがへんなかんじでした
この本には他にも、読んでいて胸が締めつけられるような詩がいくつもあるのですがそれはさて置いて、上で引用した詩をあらためて見てください。感情がまっすぐに表現されていると感じませんか。
もしこれに「感想」をとってつけるなら、例えば「こんな思いをしておにぎりをつくってくれるなんて、やさしいおかあさんだとおもいました」とか、「でもおしごとがあるからしかたないとおもいました。やっぱりおとうさんがだいすきです」といったような文がついていたら、この読後感はまったく損われてしまうでしょう。
一年生は、こんな感じでストレートな表現ができているのです。ところが、どうしたことか学年が上がっていくと、いつの間にか「とても楽しかったです」といった感想が末尾にくっつくようになります。
作家の清水義範は、小学生を対象とした作文教室の経験から「小学生の作文は事実上、先生への手紙のようなもの」であることを指摘しています。先生は教室において、子供の成績や人物を評価する唯一の大人(権力者)ですから、先生の機嫌を損ねては大変です。いきおい、その手紙にはどうしても大人へのへり下りが出てしまうわけです。なにか大人が喜ぶようなことを書かなければいけない、という気持ちが生まれるのも無理はありません。本を読んだら感動し、工場見学に行けば働いている人々の姿に感銘を受け、先生の授業は楽しかった、と書かずにはいられないのでしょう。
レポートは誰に向けて書くべきか
さて、本題である講義レポートに視点を移しましょう。
上のような調子で、「作文は先生への手紙である」という認識を抱えたまま講義レポートに取り組んでしまうと、「レポートは教員への手紙である」と思ってしまうのかもしれません。レポートに感想文や言い訳や居直りの文句を書いてくることは、その証左といえそうです。
自分が感じたことを教員へ伝えることがレポートの役目であり、そのレポートによって成績が評価される、という認識から辿り着くのが、いかに教員の心象を損ねないか、気に入ってもらえるような文章を書くか、という戦略です。間違ったことを書いて減点されないよう、講義で話されたことから一歩もはみ出さないよう調整しつつ、「面白い」「感動した」「さらに好きになりました」といったような相手の気分を持ち上げるための言葉が連なります。
これと似たような文章になりがちなのは御礼状やファンレターです。いただいたものにたいして少しつっこんだ感想を書いてみたいものの、うっかり相手の心象を損ねるようなことを言っては大変だ、と考えあぐねる。あるいは相手の最近の作品について、多少思うところを述べてみたいものの、機嫌を損ねてしまっては申し訳ない。そこで慎重に検討を重ねて言葉を選んでいると、当たり障りのない感想文ができあがりがちです。
講義レポートはしかし、そういうものではありません。
まずレポートは、教員一人へ向けて書くものではありません。たしかに読むのはレポートを課した教員一人かもしれませんが、それでも万人が読むものであるという想定のもと、開かれた文章を書かねばなりません。レポート課題とは、将来そうした文章を書くための訓練でもあるからです。
レポートが開かれた文章でなければならない以上、教員一人に対しておもねった文章を書いても、それは評価の対象にはなりません。
だからといって、「面白かった」「楽しかった」「感動した」という感想のみ並べた、かつ開かれた文章であるからといってレポートになるかというとそうではないのは、ネットに溢れる質の低い「ステマ記事」「提灯記事」を読めば明らかでしょう。「○○を使ってみて、とてもよかったです」とだけ書かれても、あなたの購買意欲はピクリともしませんよね。
レポートは、与えられたテーマに対しての分析・検討を通じて自分がなにを発見したのかを相手に伝えるものです。仮に、「面白い」「楽しい」という感想を伝えたいのだとしても、「なぜ」それが面白かったのか、「なぜ」それが楽しかったのか、その検討過程も書かねば読み手に伝わりません。
加えて、その分析・検討は、紙数制限が許す限りにおいてできるだけ深く行うことが肝心です。例えば「感動した」という言葉は、その指す内容が漠然とし過ぎています。具体的にどのような感動だったのか、もっと言葉を尽すべきです。「面白かった」「楽しかった」も同様です。
「感動」の質を詳細に書こうとすると、対象のどの部分に心を動かされたのか、自身の心の動きに必然的に向きあうことになります。話を聞いて感動したなら話のどの部分で感動したのか、どうして感動したと思ったのか、どうして自分はこれまでの人生で同じ感動を味わう機会がなかったのか…検討すべきことはいくらでもあります。
最後にいまさらながらですが、レポート課題をよく読んでください。あなたの感想を書くことが求められていることは滅多にありません。「〜について論じよ」「〜について調べたことを記せ」「〜の結果を報告せよ」、いずれもあなたのぼんやりした感想を求めるものではありません。