本書 p.127 のコラム「感想文から卒業しよう」のほぼ全文を以下に掲載します。
「3-8 起きたことを時系列で語らない」では、苦労話や言い訳を文章に書かないように説きましたが、大量の学生レポートに目を通していると、それ以上に目につくのが、レポート末尾に感想めいたことを書いて終わらせたものです。
実際に著者が目にした典型的な例を載せてみましょう。
今回の分析を終えて、普段遊んでいるゲームにも多くの技法が生かされていることを学んだ。これからはそれらの技法により注意してゲームを遊んでみようと思う。
今回の考察では一つの映画のことしか考察できなかったため、今後は複数の映画でどのような技術が使われているか考察しながら鑑賞していきたいと思う。
他の実験では被験者に緊迫感を与える様々な手法が使われていると思うので、今回取り上げた手法以外にも是非試してみたいと思った。
全国の大学教員の心境を代弁して書きますが、レポートにとってつけたような感想を書くのはやめましょう。著者の知る限り、このような感想を評価している教員は一人もいません。
小学生向け作文教室の講師を長く務めていた清水義範は、彼らにとって作文とは、最後になにか行儀のよい、良い子の書きそうな、大人が喜びそうなことを書いて締めくくらねばならないもの、として受け止められているのではないかと指摘しています(清水義範『作文ダイキライ―清水義範のほめほめ作文道場』学習研究社, 2010)。言われてみると確かに小中学生の頃の作文は、なにかの出来事を通じて「自分は成長した」ということを書かねばならないような気がしていたものです。それが癖になってしまい、レポートにもついそうしたメッセージを書いてしまうのかもしれません。
しかし、論説文は対等の相手へ、また広く社会へ向けて発信する文章です。たとえ講義レポートであっても、将来そうした文章を書くための訓練として書いているものだと思って欲しいのです。
なお、原稿の段階では書いてあったものの、ページ数の制約で削らざるをえなかった文章がありますので、ここにそれを記します。
もしあなたが小学生や中学生でこれを読んでいるのなら、あなたも次から、学校の作文を感想文で終えるのはやめてみてはどうでしょう。それはなかなか勇気のいることですが、あえてやってみることで、あなたの文章力やものを考える力は、ぐっと伸びるはずです。それは「私はこの出来事を通じて成長したように思います」と書くよりも、ずっと実りある成長の証になるでしょう。