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説明するな、描写せよ

3.5 既知の情報から新しい情報へつなげよう」で、「読むことは能動的な行為である」ということを説明しました。このことは、説明文や論説文に限ったことではないようです。

ロックバンド「SUPERCAR」の元ギタリストで作詞家でもある、いしわたり淳治さんが、テレビ番組(ETV 特集『いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話』2017年9月23日放映、NHK 教育テレビ)での対談で、1970年代に数々の大ヒット曲を手がけた作詞家・阿久悠さんの歌詞について、こんなことを話されていました。

例えば「上野発の夜行列車おりた時から」って言ったときに、もう映像が浮かんでるじゃないですか。でも、今の音楽って「僕の心の青い炎」って、これ映像浮かばないでしょ(笑)。
(略)
さみしかったら「さみしい」って(現代の歌詞は)結局書くけど、かもめが飛ぶ様で映像的に伝えるだけで、後はさみしいと感じるかどうかは聴き手の自由、みたいなところに行っている。
(略)
それのいいところは、やっぱり聴き手の参加意識がのっているところ。映像だけを浮かべてそこになにかを感じるのは能動的な作業。だけど、「青い炎」を押しつけられるのは受動的な作業。

(著者による書き起こし)

小説の世界では「説明するな、描写せよ」(Show, don’t tell)という鉄則が昔から知られています。たとえば登場人物がどんな性格なのかを読者に伝えたいときに、「彼はいい奴だ」と書くよりも、その人物の普段の振る舞いや言動を書くことで、読者に「こいついい奴だな」と自発的に思ってもらうことを狙った書き方が推奨されています。

歌人の俵万智さんは著書『短歌をよむ』で、「気持ちを表す言葉よりも、事柄を表す言葉のほうが、読む人の想像力を刺激する」と述べ、読み手に伝わりやすく、かつ押しつけがましさのない言葉を選ぶことの大事さ・難しさを繰り返し強調しています(俵万智『短歌をよむ』岩波新書, 1993)。

俵さんの代表作、

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

は本来、カレー味の鶏からあげを褒められた喜びが出発点にあったのですが、推敲の過程で「カレー味」を「この味」へと変えています。具体的な味をぼかすことで、読者がその味をそれぞれの好みで想像できる余地を作り出したわけです。

いずれの例も、「読む」という行為が能動的なものであるということの表れではないかと思います。状況からなにを感じるか、それを読者の感性に委ねるという考え方は本書の「コラム: 形容詞を削れ」で紹介した考え方とも通じています。

もっとも、論述のための文章においては、書き手の考えを読み手に正確に伝えることがまずは大事です。読み手が想像で補う余地は残すべきではありません。

一方で、書き手の主張を「これが真実だ」とばかりにいきなりずけずけと読み手に押しつけるのも好ましくありません。

書き手の主張を事実を添えて伝え、その上でそれをどう判断するかは読み手に委ねるのが、目指すべき姿勢です。

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