本書「3.5 既知の情報から新しい情報へとつなげよう」で、読み手は文章を読むときに、そこに書かれていることを読み手がすでに持っている知識と結びつけながら読んでいる、ということを説明しました。その例として次の文を本書では示しています。
美代子がハンカチをたたんでくれた。ハンカチはしわくちゃになった。
ふつうハンカチをたためば綺麗になりこそすれ、しわくちゃになるとは考えにくいので、一読すると違和感を覚えることになります。しかしこの文の前に「娘の美代子は最近、家事の真似事をしたがるようになった。」という文があれば、ハンカチがしわくちゃになるのも無理はないと考えられるため、先程の例文はすんなりと受け止めることができます。
さてここからが本題です。先の例文を少し改変した、次の二つの文を比べてみてください。
美代子はシャツをたたんだ。シャツはしわくちゃになった。
勝彦はシャツをたたんだ。シャツはしわくちゃになった。
ハンカチくらいはさすがに誰でもたためるだろうと考えてシャツにしてありますが、基本的には先程の例文と同じです。それを基に、名前のみ変えたもう一つの文を並べました。美代子・勝彦それぞれについての事前情報はないものとすれば、理屈の上では二つの文に対して感じる違和感も同じ程度であるはずです。
しかしながらこれをお読みの方の中には、二つの文の間に小さな差を感じる人も多いのではないでしょうか。
よくある反応は、前者に比べて後者の文に感じる違和感が小さい、というものです。つまり、勝彦の方が、シャツをたたんでしわくちゃになるのも無理はないと受け止められることが少なくないのです。
おそらくその背景には、女よりも男の方が家事が下手であっても不思議はない、という読み手の持つ「常識」が働いているはずです。それゆえ「勝彦はシャツをたたんだ」という文ですら、そのまま受け止めずに「勝彦はなんらかの理由で慣れぬ家事をしている」という隠れた前提を暗黙のうちに抱えて続く文章を解釈しているわけです。
自分の持つ「常識」を疑う
さて、立場を代えて書き手の気持ちになって先程の文をあらためて検討してみましょう。仮に「勝彦はシャツをたたんだ。シャツはしわくちゃになった」という文を特に違和感なく書き手が書いたのだとしたら、それはつまり、「男は家事が下手なのが当然である」という前提を書き手が持っており、また同じ前提を読み手も持っているだろう、という書き手の期待がそこに隠れているということになります。
しかしその前提は、はたして正当なものでしょうか。たしかに昔は、家事は男のするものではないという通念もありましたが、現代では薄らぎつつあります。読み手も同じ通念を持っているとは限りません。
「3-1 厳しい読み手になろう」や「3-2 『なぜ』の不足を解消する」で説明したように、書き手の常識は読み手の非常識にもなりうるものです。他人の視点から自分の文章を見つめなおすということは、自分が従来から持ち続けてきたものの見方を、別の基準から検討するということをも意味します。
検討の結果、自分の見方が偏っていたことに気付いてそれを修正することもあるでしょうし、あるいは主張を貫くために説明を補うこともあるでしょう。いずれにせよ文章はより鍛えられ、強くなります。
文章をよりよく伝わるものにしようと務めるということは、必然的に、自分の内面を見つめる作業を伴います。その結果、偏ったものの見方を改めることになったり、より深い学びに繋がったりするのです。
よい文章を書こうとする努力は、自分を磨くことにもつながるのです。