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コラム「接続詞も削れ?」

本書 pp. 103-104 のコラム「接続詞も削れ?」から一部を抜粋してお届けします。


2.9 接続詞が文脈を作る」では、主張の論理的構成を明確にして、かつ読みやすくするための「つなぎ」として、接続詞を有効活用しようということをお伝えしました。

ところがですね、世にあまたある文章読本の類では、「接続詞を多用するな」と主張をするものが少なくないのです。例えば、名文家として名高い小説家・谷崎潤一郎は著書『文章読本』でこう語っています(谷崎 1934, 2016)。

(現代人は)文法的の構造や論理の整頓と云うことに囚われ、叙述を理詰めに運ぼうとする結果、句と句との間、センテンスとセンテンスとの間が意味の上で繋がっていないと承知が出来ない。(略)ですから、「しかし」とか、「けれども」とか(略)云うような無駄な穴填めの言葉が多くなり、それだけ重厚味が減殺(げんさい)されるのであります。

三島由紀夫もやはり著書『文章読本』でこう指摘しています(三島 1959)。

(接続詞を)節の初めに使った文章は、如何にも説話体的な親しみを増しますが、文章の格調を失わせます。

どうも、名文家に接続詞は邪魔者として捉えられているようです。確かに接続詞が乱用された文章には、うっとうしさを感じることもあります。接続詞には著者の主観が込められていますので、それが沢山続くと、主張の押しつけがましさを感じてしまうのでしょう。物語文や随筆文などでは、接続詞は控え目にするのがよさそうです。

(中略)

一方で、哲学者の野矢茂樹は『哲学な日々〜考えさせない時代に抗して』(野矢 2015)で、論理的文章における接続詞の大切さを説いた後に、接続詞を省こうとする傾向について次のように述べています。

(接続詞を嫌うのは)日本の言語文化の特徴と言ってよいように思われる。相手の知識や自分との関係を見切って、相手がつなげられるぎりぎりのところまで言葉を切りつめて手渡す。そして聞き手がそれをみごとにつなげて理解できると、そのときたんなる情報伝達ではない「絆」感が生まれる。閉鎖的な業界が自分たちにだけ分かる隠語を使うような感じと言ってもよいだろう。

本書で対象としている説明文や論説文では、読み手が皆その分野に精通していると期待するわけにはいきません。分野外の人が目を通すことだってあるのです。万人に開かれた文章を目的とするのであれば、接続詞を使うことをためらってはいけません

とはいえ、接続詞を多用し過ぎて読みにくくなっては本末転倒です。適切に使うにはどうしたらでよいでしょうか。これは、パラグラフ・ライティングが実践できていれば、ある程度は自ずと解決するはずです。というのも、論理構造が段落単位で形作られるのがパラグラフ・ライティングですから、重要な接続詞は各段落のトピックセンテンスにあればよく、続く文には話題の大きな転換を告げるような接続詞は含まれないからです。したがって、段落の先頭の接続詞は大切なものとして残した上で、段落内の接続詞は、「なくても意味は通るな」と思ったら削ってみるのもよいでしょう。ただし、多少読みにくく稚拙な文章になったとしても、意味が伝わらない文章よりかははるかにマシです。削り過ぎには注意しましょう。